【第6回日本和文化グランプリ】千夜賀風「簗田寺薪能」がプロデュース部門に入選
東京・町田の市街地を離れ、なだらかな丘陵と谷戸の風景へ入っていくと、木々に囲まれた一角に東向山簗田寺があります。
山門の先には本堂があり、その奥には鶴見川の水源のひとつとされる龍王ヶ池。
季節ごとに木々の色が変わり、鳥や虫の声が境内に響きます。
都心からそれほど遠くない場所でありながら、ここには街の時間とは少し違う、穏やかな時間が流れています。
千夜賀風が簗田寺で日本刀の体験を行うのは、この静かな環境だけが理由ではありません。
この寺とその周辺には、平安時代から江戸時代に至るまで、幾人もの武将と武家の歴史が重なっています。
簗田寺の起源は、約千年前に遡ると伝えられています。
平将門の乱を鎮めた武将・平貞盛が、この地で戦いの死者を弔い、「東香堂」を建立したことが始まりとされています。
室町時代になると、関東管領を務めた上杉憲定によって「東岳寺」として再興されました。
さらに時代が下り、江戸時代初めの寛永6年(1629年)、徳川家に仕えた旗本・簗田正勝によって、現在につながる曹洞宗の寺院「東向山 貞憲院 簗田寺」として改めて開かれます。1 寺の名に残る「簗田」は、正勝の家名です。
簗田家の名が歴史に大きく現れるのは、戦国時代です。永禄3年(1560年)、織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦い。
その勝利によって、信長は一躍歴史の表舞台へ出ることになります。
この戦いで重要な役割を果たした人物として伝えられているのが、信長に仕えた簗田政綱です。
簗田家に伝わる由緒では、政綱は今川義元の本陣の位置を探り、その情報を信長にもたらしたことで勝利に大きく貢献したとされています。2
戦国の武将というと、刀や槍を手に敵と戦う姿を思い浮かべがちです。しかし実際の戦では、地形を読み、人の動きを見て、情報を集め、どこで動くのかを判断することもまた、生死を分ける重要な力でした。
簗田政綱の逸話は、武士の強さが腕力や剣技だけではなかったことを今に伝えています。
その後、戦乱によって簗田家は一度所領を失いますが、政綱の家系を継ぐ簗田正勝は徳川家康に仕え、旗本となりました。
やがて現在の町田市山崎、本町田、木曽周辺など(町田駅から簗田寺へ向かう道のりにあたる地域)に所領を得た正勝は、領内にあった寺を先祖の菩提寺として再興します。1 それが簗田寺です。
いま町田駅から簗田寺へ向かう道は、かつて簗田家が治めた土地を辿る道でもあります。
街並みから次第に緑の多い丘陵へと景色が変わっていくなか、そのことを知っていると、寺へ向かう時間も少し違って感じられるかもしれません。
境内の奥には、現在も簗田家の墓所が残されています。武将にちなんで後世につくられた場所ではなく、その家が実際に先祖を弔った寺であること。それは、簗田寺を訪れるうえで知っておきたい由緒のひとつです。
簗田家の物語は、戦場だけにとどまりません。
簗田寺を再興した正勝の長子・簗田直次(史料では「梁田直次」)は、後水尾天皇の中宮(天皇の正式な后)となった東福門院・徳川和子(徳川家康の孫娘で、二代将軍・徳川秀忠の娘、三代将軍・徳川家光の妹)に仕えた「女院附武家」でした。3
女院附武家は、元和6年(1620年)の徳川和子入内に際して設けられた幕府の役職です。
直次は寛文6年(1666年)に女院附武家となり、東福門院が崩御する延宝6年(1678年)まで、その役を務めています。3
その役目は、身辺を警護することだけではありませんでした。女院附武家は、京都と江戸の間を往来して使者を務め、朝廷の様子を幕府へ伝えるなど、宮廷と幕府の間に立つ重要な役割を担っていました。3
そして興味深いのは、どのような人物がその役に選ばれていたのかという点です。
女院附武家となった者は、いずれもそれ以前に幕府の何らかの役職を経験しており、その経歴から、仕事ぶりや人柄を含め、信頼のおける人物であることが求められていたと考察されています。直次自身も女院附武家となる前には払方納戸番頭(将軍家の金品や下賜品の出納を担う「払方納戸」の長にあたる役職)を務めていました。3
武士に求められたものは、刀を扱う力だけではありません。節度を持つこと。人から信頼されること。そして、自らに与えられた役目を果たすこと。
簗田政綱が戦場で「情報と判断」の力を示した武士だとすれば、直次の生涯からは「信頼と奉仕」という、もう一つの武士の姿を見ることができます。
では、簗田直次が12年にわたって仕えた東福門院とは、どのような人物だったのでしょうか。
徳川和子は江戸に生まれ、14歳で京都へ入り、後水尾天皇の中宮となりました。
二人の間に生まれた興子内親王は、後に第109代・明正天皇として即位します。
一方、東福門院が生きた時代は、長い戦乱が終わり、武家と公家の文化が交わりながら、新しい美意識が育っていった時代でもありました。東福門院は、和歌や茶、香、装束などに囲まれた宮廷文化のなかで生きました。
京都の名門呉服商「雁金屋」は東福門院の御用を務め、後にその家から江戸中期に活躍した画家・尾形光琳や陶工・乾山兄弟が生まれています。
また、東福門院自身の作と伝えられる押絵歌仙像や、彼女が銘を付けた香木も現在に伝わっており、宮廷における文化との深い関わりをうかがうことができます。
戦国の世を生きた徳川家康の孫として生まれ、天皇家へ嫁ぎ、江戸幕府と京都の宮廷という二つの世界の間で生涯を過ごした女性。
その東福門院について、千夜賀風では以下の資料にまとめています。
※「東福門院(徳川和子)」人物紹介・家系図
華やかな宮廷文化の中で生涯を過ごした東福門院ですが、その人生にはもう一つ、簗田寺へとつながっていく物語があります。
それは、故郷である江戸への思いです。東福門院は江戸から京都へ入り、その後、生涯を京都で過ごしました。
東福門院の辞世として、次の歌が伝わっています。4
「武蔵野の 草葉の末に宿りしか 都の空に帰る月影」
ここで詠まれている「武蔵野」は、彼女の生まれ故郷である江戸へとつながる土地です。
東福門院ゆかりの京都・光雲寺も、後水尾天皇と東福門院によって再興された寺として現在に伝わっています。
そして、ここに簗田寺とのもう一つの縁があります。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』には、長く東福門院に仕えた直次が、東福門院の死後にその御霊牌を造り、簗田家の菩提寺である簗田寺へ安置したと記されています。5 故郷を「武蔵野」と詠んだ東福門院の御霊牌が、最後まで彼女に仕えた簗田家の武士によって、同じ武蔵国にある簗田寺へと迎えられました。
京都で生涯を過ごした東福門院と、武蔵野の地にある簗田寺。その二つを結んだのが、簗田直次だったのです。
現在も簗田寺には、東福門院の御霊牌が大切に安置されています。5
簗田寺のある町田市忠生という地名そのものにも、武士の物語が残されています。
この一帯は、かつて小山田氏が勢力を持った地域であり、南北朝時代の武将・小山田高家の出生地であると伝えられています。6
高家は、『太平記』にも登場する武将です。延元元年・建武3年(1336年)の湊川の戦いで、新田義貞が敵軍に囲まれ馬を失った際、高家は自らの馬を義貞に譲り、その場に残って戦い、命を落としたと記されています。6
そして、この高家の忠義が、現在の「忠生」という地名へとつながります。
明治22年(1889年)、上小山田村・下小山田村など周辺の六つの村が合併して新しい村をつくる際、この地が小山田高家の出生地であるという故事にちなみ、「忠生村」と名付けられました。6
「主人に忠義を尽くした武士が生まれたところ」。その意味を込めて生まれたのが、「忠生」という地名です。
何気なく使われている現在の地名にも、約七百年前を生きた一人の武士の記憶が残されています。
簗田寺だけではなく、この土地そのものに武士の物語が刻まれているのです。
現在の簗田寺は曹洞宗の禅寺です。
境内には本堂や坐禅堂、簗田家墓所、龍王ヶ池があり、その傍らには茶室「白月居」が佇んでいます。
日本刀を扱うときにも、まず求められるのは力ではありません。
姿勢を整え、呼吸を落ち着かせ、刀の重さを感じ、周囲との距離を確かめる。
無理に速く振ろうとするのではなく、自分の身体と刀がどう動いているのかを知ることから始まります。
そして簗田寺の歴史を辿れば、武士に求められてきたものもまた、武勇だけではなかったことが見えてきます。
‐ 戦場で状況を見極めた簗田政綱。
‐ 宮廷と幕府の間で信頼を受け、東福門院に仕えた簗田直次。
‐ 主君のために自らの馬を差し出した小山田高家。
そこに共通するのは、単なる強さではなく、判断、節度、忠義、そして自らの役目を果たそうとする姿勢です。
森に囲まれた禅寺で刀と向き合っていると、日本の武術が長い時間をかけて育んできた身体感覚と、寺に流れる静かな空気とが、どこか自然につながって感じられます。
「なぜ、町田まで足を運んで日本刀を体験するのか。」そう思われる方もいるかもしれません。
その理由のひとつは、町田を含む多摩という土地に、武芸や剣術の文化が深く根づいてきた歴史にあります。
江戸時代、この地域は甲州方面から江戸へ通じる西の地域として重要な位置にあり、八王子千人同心をはじめ、武芸の修練を重んじる人々が暮らしていました。7 そして、その文化は江戸時代だけで終わったわけではありません。
幕末になると、現在の町田市小野路にも、のちに新選組を率いる近藤勇や土方歳三らが剣術の出稽古に訪れています。
多摩には、武士が暮らしたというだけではなく、実際に刀を学び、稽古し、その技と精神を受け継いできた歴史があります。
簗田家の菩提寺であり、武士の記憶が残る簗田寺。その周囲にもまた、武芸と剣術の歴史が広がっています。
だからこそ、ここまで足を運び、この土地で日本刀と向き合うことに意味があります。
日本刀を手にするだけではなく、その文化が育まれてきた土地に身を置くこと。
それもまた、千夜賀風が町田・簗田寺で抜刀体験を行う理由のひとつです。
簗田寺で日本刀と向き合ったあと、少し足を延ばして、この地域に残る武士や剣術の歴史を辿ってみるのもよいかもしれません。
まず西へ目を向けると、八王子千人同心の歴史があります。
その源流には武田氏の旧臣たちがおり、徳川家康の関東入国後、八王子を拠点として、甲州方面から江戸へ通じる西の地域を守る役割を担いました。7
千人同心にとって武芸は重要な修練のひとつであり、千人頭、組頭、平同心といった立場を越えて剣術が学ばれていました。
数馬広二「八王子千人同心における武芸」からも、各階層に剣術の門人がおり、この地域で武芸が広く修練されていた様子を知ることができます。7
一方、町田市小野路へ向かうと、時代は幕末へとつながります。
江戸時代の小野路は、大山詣りの人々などが行き交う宿場であるとともに、周辺の村々を束ねる地域の中心でもありました。
ここには、寄場名主を務めた小島鹿之助の屋敷がありました。8 鹿之助は天然理心流を学び、のちに新選組局長となる近藤勇とは義兄弟の契りを結ぶほど親しい間柄でした。
近藤勇や土方歳三らは、京都へ赴く以前から小野路をたびたび訪れ、小島家などで剣術の出稽古を行っています。
小島家では、近藤が近在の若者たちに天然理心流の剣術を教えていたと伝えられています。8
彼らが京都へ渡り、新選組を結成した後も、小島家との交流は続きました。
現在の小島資料館には、近藤勇の稽古着や書簡など、当時の関係を伝える史料が残されています。8
簗田寺から八王子、小野路へ。
それぞれの場所に残る歴史を辿っていくと、多摩の「武」が、ひとつの時代だけのものではなく、人から人へ、土地から土地へと受け継がれてきた文化であることが見えてきます。
簗田寺で触れた日本刀の世界を、その周辺に残る歴史へとつなげてみる。
それもまた、多摩という土地を通して、日本の武の文化をより深く知る楽しみのひとつです。
千夜賀風が伝えたいのは、武士の姿を装うことだけではありません。
日本刀がどのようなものであるのかを知り、実際に手に取り、構え、身体を動かしてみる。
その経験を、その背景にある歴史や文化とともに味わっていただきたいと考えています。
平安時代の平貞盛から、戦国時代の簗田政綱、徳川家に仕えた簗田正勝、そして東福門院に仕えた簗田直次へ。
そして寺の外には、小山田高家の物語を今に伝える「忠生」という土地があります。
何百年も前の出来事を、今日の私たちがそのまま知ることはできません。
それでも、墓所や地名、寺の由緒、御霊牌、森や水の風景は残り、かつてここに生きた人々の存在を静かに伝えています。
そうした場所で一振りの刀を手にしてみると、日本刀は展示室の中で見るものとは少し違って見えてきます。
簗田寺を訪れることもまた、日本の武の文化に触れる体験の一部です。
